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「英語」が私たちを救うことになるその意味

最も大切だったはずの物が、今では人の目を引かぬ分野になってしまった

つまり「会話力」のことです。こんなことは昔々から言われてきたことじゃないの!とお思いですよね、はい、筆者も重々承知しています。しかし会話力というものが、これに続く「読解力」や「表現力」「文章力」全般に広く、しかも非常に深く関連してくるのは、今皆さんのギア入れまくりのご想像力の通りです。

前回のコラムで少し触れましたが、目の見えない人たちは、どのように「読解」しているのか。視覚に障がいをお持ちの人が使う「点字」という文字がありますが、生まれながらにして目が不自由な人たちは、やはり紙に書かれた読み物ではなく、まずは会話によってスタートし学んで来られたわけです。『会話力が、生活の安全を確保する』ことにもなります。

私たちのほとんどが、文字よりも先に会話から生活を築いてきました。会話や対話が大事なのは、昔から言われてきたことです。でも、昨今はこれまで繰り返されてきた教訓が、いかに大切であるか…この「会話する習慣」を考えることは大変意味のあることかと思います。

かつて破竹の勢いで急成長していた、とある若い企業で実際にあったのが、一人に数台のシステム端末とパソコンをあてがい、すぐ隣りや背後に同僚がいるというのに社内の会話は全てパソコン上のチャットで行い、「口で会話をするな」という禁止令が出されたオフィスの光景。なんでも、対面の会話では効率が悪いからだそうです。

この「効率」という言葉は、一時代を築くにあたって何度も耳にしてきました。
現在はSNSで短いつぶやきを世界に発信することが可能ですね。時代のトレンドは、時短と、文章の短文化です。日本には俳句や短歌の奥深い文化がありますので、今の時代の短文化が悪いわけではないのでしょうが、多くの人たちが、今のこのコラムも含めて、長文を読むことすら、もはや出来ないのではないか……そんな危機感さえあります。

世界中には勿論、欧米であっても、文字の読み書きの教育を受けられない人たちが今も大勢います。
しかし日本は屈指の識字率です。昔から日本人は「読み、書き、そろばん」が得意でした。昔の日本はどんなに過酷な境遇でも、文字を学ぶことにおいては貪欲だったんです。 江戸時代、主に一般家庭内の労働力であった町人の子供たちは学校に通うのが難しかったため、ボランティアによる「読み書き計算」のフリースクールが登場しています。現代の私たちも知っている、寺子屋ですね。読む・書くことにおいて日本人は、ものすごい根性と執念がありました。

この時代に書かれた一般の町人の手紙や日記が後世に残っているのですが、これがかなりの表現力でして、当時の細やかな感性などは、文字があふれた暮らしぶりの現代人でも驚くばかりです。読んだ人が後世に残すぐらいの手紙ですから、特に、上級者の書いたものに違いないですよね。
でも、当時浸透していた日本語力は、書き物だけではありませんでした。
むしろその能力は、「会話力にこそ」あったようです。

「読書では《純粋な読解力を身につけること》は不可能」という最新の研究結果……この事実を知ったとき、私は驚愕しました。
では、どうやって「読解力の根本」を得るのかと。
どうやって、かつての日本人は、きめ細かな言語力を培ってきたのか。
高い識字率を誇る日本人が基礎とした膨大な読み書きよりも、他に理由があるとすれば紛れもなく【会話力を重視した】ことによる、という結果なのです。

日本人は読解力を、「対面での会話力で手に入れてきた」ということです。

そして、世界の言語の中でも日本語は難しいと言われますが、日本人の書く小説が、ダントツで海外の言葉に翻訳しにくく、細部を訳すのが超絶困難という事実……。
読書そのものが、読解力を作るわけではない。
読解力は生まれ持ったものであって、それを僅かにでも補うとすれば【「体験的思考」と、「会話」である】という。なんという新事実でしょう……。

日本人が最も大切にしてきた価値観とは何か。
会話では、声や顔の表情を使います。読解力、文章能力では表現することが難しいものでも、会話上でなら通じる繊細さが沢山あります。

昔の日本にはあって、現代の日本には足りないもの。
人と対話する習慣は、確かに、ストレス社会の中にいては大変しんどいことです。
読解力や会話力の低下は、人との関わりを避ける現代の繊細過ぎる日本の縮図であり、普段のありきたりな、あるいは時に有益な会話は、私たちの目を引かぬ地味な分野となってしまいました。

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